昔のほうが言葉に敏感だったかもしれない
手ぐせで書いている。
そんな気がする。
きょうは、久しぶりに、
頭を殴られた気分というか、
自分のコピーを書き直されて、
圧倒的によくなって返ってきて、凹んだ。
一方で、嬉しかった。
もうだいぶ一人前のように
扱ってもらってしまっていたんだけど、
全然そうじゃなかった。
自分はまだまだだった。
でも、それを一番自分がわかっていた。
実力は変わらないのに、
いつからか、
周りが「コピーライター」としての私を認めはじめた。
それは、年次的なものなんだろう。
書くコピーが、直されて、もちろん凹んだ。
でも、
まだこういうふうにすればよくなるんだ
という答えのひとつを教えてもらえて
ああ、なんだか、
止まっていたものを動かそうと
すこしだけ、ほんのすこしだけだけど、
仕事に対するモチベーションが、
動き出したのだ。
仕事も
漫画も
英語も
恋愛も
ずーっと変わんないな、
この10年くらい悩んでることは。
そしてだいたい、
仕事か恋愛で凹んだときに
ここにやってくるんだなぁ笑
この木金土で、イラストを描きたいな。
やろう、うん、やろう、うん。
昔の気持ちが漂流してきた。
久しぶりにひらいたブログ。
そもそも、書いた文章なんて多くないけれど。
なんだか、ずっと同じようなことで悩んでいるんだなって
ちょっと笑っちゃった。
笑えるようになったんだな。
24歳とか26歳とかの私。
まだまだ若いのに、
早く一人前になりたかったんだよなぁ。
しんどかったよなぁ。あの頃。
いまは少しだけ、一人前に近づいた。
きのう、営業さんに怒られてしまったことで
夢に見るほど凹んでいたけれど。
(しかも、それは、理不尽なことではなく、
おっしゃるとおりすぎて、自分で情けなくなっていた)
そして、ちょっと仕事しようと寄ったスタバで、
お腹痛くなっていたけれど。
少し落ち着いてきた。
なんかでも、そういうふうに言ってもらえる立場になれていること。
これをきっかけに、見放されるのではなく、
きちんと存在感をアピールしていいよってこと。
なんだから。
前向きに捉えるってのも、変な話だけど、
がんばろう。がんばるチャンスがあるんだ。
がんばろう。
でも、変な話、そこでダメでも死にはしない。
他にも、できる仕事はある。
この仕事がダメになっても、ある程度は蓄えているんだから、
そして、もっと楽に、稼げる仕事はきっとあるから、
自分のやりたい絵のほうに集中してみればいい。
ハンド部のときは、何も言われないまま見放された。
あのときのことを思えば、本当にありがたいよな。
昔の自分、ずいぶん、がんばってきたし、
あのころと比べたら、とっても評価されるようになった。
実力も、まだまだだけれど、
すこしはついた気がするって、
いま、自分で思えるようになった。
いまが、たぶん、いちばん面白い時期。
もっと恥をかいたりしよう。
今年、何をやったかって、言えるようにしよう。
まずは!マンガ!
今日、おうちに帰ったら、
おいしかったお寿司のことを
マンガにしよう。
まずはそこからはじめよう。
あたまで思っているだけでは、ダメだ。
そして、ラボを、今月でやめよう。
決めたぞ。決めた。
私は成長していないのかもしれない。
2020年も、もう8月。
自分にとって何が大切なのか
その優先順位をうまくつけられずに
いまだにゆるゆる生きている。
だから、こんなに焦るんだろうな。
だから、こんなに本来好きになるべきじゃない人に
心を奪われてしまうんだろうな。
恋愛をすることよりも、
そろそろ、
子供を、
家庭を、
つくることについて
本気で考えたほうがいい。
私、この人の子供がほしいのか?
って視点。
好きだけでは、生きていけない。
いま、付き合ってもいないのに
こんなにイライラするんだもん。
きっと無理だ。
せっかく私のことを
前向きに考えてくれる人が
何人かいるのだから。
まあ、そろそろ、彼氏がほしい。
というか、
同窓会の時点で、
誕生日の時点で、
彼氏がいる状況にしておきたい。
そんなエゴ。
どうしてもこの人と
付き合いたいって人がいるわけではない。
それは見栄であり、
それは自分がもう寂しい思いをしないためである。
フリーの状態で元彼に会いたくない。
どうでもいい男と付き合っていると思われたくない。
すごく好き(いまのところ)。
そういう嘘をつこう。
利用する結果になるかもしれないし、
本当に好きになれるかもしれないし。
それは、今月中にやっつける、として。
漫画。
英語。
これ、一生ついてまわる。
だけど、一生挑戦しないまま終わったら
まじで意味がない。
早ければ、早い方がいい。
なんなら、それこそ、
家庭を持ったらチャレンジできない。
なんのためにアウトルックに入れているんだ!!!!!!
英語、やろう。
今日、やろう。
どうでもいいあの糞男からの連絡を待っている場合ではない。
アウトルックに予定を入れるのだ!!!
やばい
これは、異動の前触れなのか。。
ってくらい、仕事が、落ち着いてしまった。
不安になる。
しょせん雇われの身。
私に主導権はない。
好きな人からも連絡来ないし。
どちらも、ただ、
待っているしかない立場だから不安になるんだ。
目の前の本当にやるべきことに集中できない。
本当はそこに一番注力するべきなのに。
いいコピーを書けば、
誰かが見ていてくれる。
間違いなく、そんな環境なのに。
ああー!!
海外広告賞うらやましいなって
思ったんだろうが!
なんとかして結果出さないと、
ダメだってわかってるんだろうが!
勝負は、5/19。
その時点で、ちゃんと、
堂々とアピールできる仕事を持っていなくては。
くやしい。
力不足だってわかっているんだろう。
何年、その言い訳を続けているんだ。
必要とされる自分は、
自分でしかつくれない。
奮い立て。
わたし。
恋にうつつを抜かしている場合じゃないよ!
それでチャンスを逃したら、元も子もない。
やさしい上司が、推薦してくれているんだよ。
成長は、痛みをともなう。
いまは、痛みを感じる時期なんだよ。
大丈夫、大丈夫、僕は、
きみのハートに住む情熱のランプだよ。
さあ、さあ、やってやろう。
一喜一憂
「一喜一憂」という言葉は
ときに、
無駄なこととして、
表現される。
「そんなことで一喜一憂しても仕方ないよ」
とか。
「バカだなぁ、また一喜一憂しちゃって」
とか。
本質じゃなくって
表面的で一時的な
言葉とか仕草とか評価とか
そういう移ろいやすい
不確実なものを
ずどんと真に受けて
自分の心を動かして
疲弊させることは
よくないことなんだって、
そういう文脈で使われる。
今日は、「一喜」した日だったなぁ。
クライアントさんに、
このコピーはさすがプロですね、と、
「お買い上げ」してもらえた。
(先輩がいたので、
自分が書いたとは言えず、
むしろ先輩の書いたものになっていて
しょうじき複雑だったけれど)
(でも、あの先輩も、たぶんまだ「途上」なのだ、きっと)
一喜一憂は、疲れるけれど、
また、いつ「一憂」がやってくるか、わからないけれど、
この喜びは、だいじに、だいじに、
自分のこころをあっためるために
使っちゃってもいいよね。
いいよね。
一喜をひとりじめして寝よう。
どっちが新人か
もう4年目。
いい年次だ。
中学生だったら、
高校生になってる。
高校生だったら、
大学生になってる。
大学生だったら、
内定者になってる。
いままでの人生で、
4年もつづければ、
だいたいのものは卒業してきた。
この、仕事というものは、
どうやら、そう簡単に卒業させてくれないらしい。
この、仕事というものは、
どうやら、そう簡単に一人前にしてくれないらしい。
来年の春、入ってくる新入社員につけるメンターを
次長が探している声が聞こえた。
「あいつはどうですか?」
という先輩の声に対して、
「あいつはまだ、どっちが新人かわかんないじゃん」
と、声を低くひそめて言っているのが聞こえた。
くやしい
くやしい
くやしい
もう、いい年次だよ。
もう、新人くらいは少なくとも、卒業してる年次だよ。
でも、わかっているんだ。
自分に力がないことは。
次長がそう言っちゃう感じも、
正直じゅうぶんわかってるし、
正直メンターなれって言われても困る。
でも、自分をそうやって客観視できている
その現状に甘んじている自分もいる。
言い訳してる。
「この職種の一人前は、10年目くらいからだし。
まだ大丈夫。
まだ大丈夫。」
ああああ、
いつまでそう言ってんだい。
早くひとり立ちしたいなあ、本当に。
そのために、
目の前の仕事をもっと
責任もってやれってんだ。
つまんない仕事も。
磨耗する仕事も。
私を選んでくれた仕事だ。
それで、ごはんを食べてるんだ。
全部食い尽くして、
肥やしにしなくちゃ。
次、おなじ仕事がきたら、
左手で書けるようにしなくちゃ。
思い描いているだけじゃ、
成長しない。
頭を、手を、動かさないと。
さみしさの正体を
久しぶりに、ブログなんてものを開いてみた。
久しぶりに、仕事以外で文章なんぞ書いてみた。
言葉というものは、
磨く練習をしていないと、
どんどん、どんどん、
鈍くなっていく。
誰の心に引っかかることもなく、
世界に存在してもしていなくても
まったく変わることがない
そんな言葉がいっぱい
私の中から生まれてくる。
秋になったから、だろうか。
どうしようもない
さみしさが襲ってきた。
からっぽの心で
おふろで顔を洗っていたら、
なんだか涙がこぼれてきた。
私の頬を、
私の手のひらが
円を描きながら優しくなでる。
そのたびに、
ふわふわ、ふわふわ、
泡は立っていく。
そのたびに、
ぽろぽろ、ぽろぽろ、
涙がこぼれていく。
ああ、そうだ。
おじいちゃんのことを
考えていたのか。
去年
ちょうどこの時期に
さようならした
おじいちゃんを。
最後にお見舞いに行ったとき、
また会えるかどうか
なぜだかどうにも自信がなくて
ついぞ「またね」と言えなかった
おじいちゃんのことを。